先般、マーケティング発祥の地が日本だった、
というエピソードをご紹介しました。
他にも、日本には世界に先駆けた「売れる仕組み」が
いくつもあります。
日本人なら知っておきたい
「我が国で生まれたビジネスモデル」を、
折々に、ご紹介したいと思います。
今回は、貧しい土地でも富を築いた、
富山藩の試みについてご紹介します。
周囲を海に囲まれ、河川が多数ある日本では、
海上輸送が古くから物流を担っていました。
17世紀以降、秀吉の全国統一による
年貢米の全国規模での流通や、
朝鮮出兵による各藩の兵員・物資の
九州への輸送が行われるようになると、
全国の沿岸各地をむすぶ海運網が普及しました。
江戸時代になると、商品を預かって輸送するのではなく、
近江商人や船主たちが船を運航させて商品の売買をする
「廻船(かいせん)」が盛んに運航しはじめました。
廻船の中でも特に発達したのが、
北陸を中心とした船主らが営む「北前船」でした。
西回りの北前船は、瀬戸内海と日本海側の各地、
そして北海道をむすびます。
太平洋側を運航する東回りは、
江戸まで近いというメリットこそありましたが、
黒潮に逆らって進まなければならず、
船が沖に流される危険と隣り合わせでしたから、
あまり普及しませんでした。
北前船は、春のお彼岸あたりに大阪を出港し、
瀬戸内海で塩や米、衣類や日用品を買い付けて
日本海を北上。能登半島をまわって
函館、小樽に到着します。
そこで積み荷を売り、北海道の昆布やにしん(鰊)などの
海鮮品を買い付けて、日本海を渡り、下関に向かいます。
そこから瀬戸内海を経由して、大晦日ごろに大阪に戻り、
一年の仕事を終えるのです。
さて、17世紀の前半に加賀藩から分藩した富山藩は、
過大な家臣たちの人件費に参勤交代、
さらに水害や火災などに見舞われ、
多大な借財にあえいでいました。
本家の加賀藩に依存しない、
盤石な経済基盤をつくらなければ・・・。
富山藩の財政課題は、喫緊なものでした。
そんな渦中、富山藩に救いをもたらす、
思わぬハプニングが起こります。
二代目藩主、前田正甫(まえだまさとし)は、
独自に調合させた丸薬「富山反魂丹(はんごんたん)」を
携行していました。
1690年、参勤で向かった江戸で、
三春藩主・秋田輝季が目の前で激しい腹痛を起こします。
正甫が、携行していた反魂丹を輝季に服用させると、
たちまちに症状が改善・・・
この「江戸城腹痛事件」を目の当たりにした
諸藩大名たちから、
自分の藩にも反魂丹を売ってほしい、と
引き合いがかかります。
反魂丹の全国行商をきっかけに、
富山藩は製薬産業の足がかりを得ます。
富山は日本三霊山に数えられる立山の麓にあり、
天然の薬種が豊富に採取できました。
それでも、製薬に重宝される、
麝香(じゃこう)や牛黄(ごおう)などの
長崎から輸入される清国の漢方薬種は、
幕府の統制下。
大阪・道修町(どしょうまち)の問屋で入手できる
これらの薬種も、大変高価なものでした。
何とか、薬種を廉価に仕入れられないだろうか。
1800年代に入り、富山藩は清国との
貿易ルートを持っている薩摩藩に接触。
富山に寄港していた北前船が運ぶ昆布を、
薩摩藩主に献上します。
当時、財政難に困窮していた薩摩藩にとっても、
昆布の清国への輸出は、救い船でした。
なぜなら、昆布は当時の清国で、
漢方薬の材料として大変、尊ばれていたのです。
富山藩は、薩摩藩を介して
北海道産の昆布を琉球国経由で中国に届け、
その代わりに清国の漢方薬種を入手し、
富山の製薬に使用するという、
シルクロードならぬ「昆布ロード」を開拓。
商品の種類を広げつつ、
次第に販路を拡大していきました。
薩摩藩もまた、地産の砂糖を
大阪や下関で昆布に変え、
その昆布を琉球経由で中国に届けることで、
藩財政を立て直すことができました。
良い商品は、それを必要とする人のもとへ届けてこそ、
最大限の価値をもたらす。
数百年前のご先祖は、
現在も大切なことを教えてくれます。